『ディック・ジョンソンの死』

キルステン・ジョンソン監督が手がけた『ディック・ジョンソンの死』ほど、テーマに愛情が込められた映画作品は珍しいでしょう。

この作品は、2017年に精神科医である彼女の高齢の父親ディックが、アルツハイマー病を患った妻と同じ種類の精神的退化に苦しみ始める様子を描いたものです。

ジョンソン監督は、その父親が型取った厚紙を身に着けた踊り子でいっぱいのキラキラ輝く天界で大いに楽しんでいる様子を描いたシーンとともに、落ちてきたエアコンが頭に直撃したり、建設作業員に誤って刺されてしまったりといった、父親の死に関する非現実的な架空のシナリオを作り上げながら、彼女が父親の傍で過ごした時間を記録しています。

『ファースト・カウ』

この作品は、静かな準スリラーでサスペンスに満ちた物語です。

舞台は、アメリカの西部開拓時代。主人公クッキーとキング・ルーが犯罪計画を通して、自身の社会経済的立場を上昇させる試みと、彼らを待ち受ける災いが中心に描かれています。

それは甘美な顔、身振り手振りや慣習にあふれており、登場人物や先駆的な国家を前に押し出す勢いは、やや控えめな印象を受けます。

これは男同士の深い友情および、危険な資本主義の闇に共感できる映画となっています。

森の緑の中や狭い小屋の窓を通して、登場人物を撮影し、―折れる小枝、鳥のさえずり、流れる水流、人間の息づかいなど―農村環境の穏やかな音で、見事に場面を作り上げています。

『もう終わりにしよう』

2016年に発表されたイアン・リードによる小説を映画化した作品。

ジェイク(ジェシー・プレモンス)とその婚約者(ジェシー・バックリー)は、農村で農業を営む彼の両親の家を訪れる旅に出るというストーリー。

チャーリー・カウフマン監督は、死と悲しみの超現実主義を奥深く描いています。

バックリー演じる主人公は、名前がなく、多くのあだ名をつけられていますが、その事ははっきりとしない壊れた「自我」を反映したものとなっており、この映画の密な会話や内的な物語だけでなく、ユーモアとホラーの要素の融合がその二元中枢的な性質を反映しています。

『異端の鳥』

ヴァーツラフ・マルホウル監督による『異端の鳥』は、3時間近くにおよぶモノクロ映画で、気弱な人には向かず、隠喩的にホロコーストの恐怖を描いた作品です。

マルホウル監督が手がけたこの映画は、1965年に称賛されたイェジー・コシンスキによる同名著作を改作したもの。

第二次世界大戦中に疎開した先の東欧のいくつかの村で、この世に存在する全てのゆがんだ侮辱を受ける身寄りのないユダヤ系の少年(ペトル・コラール)について取り上げたホラーストーリー。

少年ペトルを(鳥たちに突かれるように)首まで埋める魔女のような占い師、小児愛の衝動を起こす独身男性(ジュリアン・サンズ)、残酷な嫉妬を抱える年配男性(ウド・キール)、そして凶暴な衝動を起こす幼い女児に至るまで、少年が出会う人々は異常で邪悪な人ばかりです。

『Bloody Nose, Empty Pockets』(原題)

ビル・ロスおよびターナー・ロスによるドキュメンタリーとフィクションの融合である珍しいこの作品では、閉店することになったラスベガス郊外にあるバー「The Roaring 20s」で雑多な酒飲みの集団が集い、最後の夜に酔っ払い同士の友情と祝杯を挙げる様子が描かれています。

制作秘話になりますが、実際のバーはニューオーリンズにあり、常連客らは即興でキャスティングされたとか。この撮影方法は、監督によると、このような酒場で常に現れる、だらしなく愉快で、自分を憐れみ、相容れない常連客の遺憾な感情を忠実に捉えるテクニックだったそうです。